物語

海士町に暮らす人・訪れた人の物語。その1つひとつに、思い出のモノから見えてくる
人生の物語が詰まっています。

50件の物語

一目惚れしたスニーカー
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一目惚れしたスニーカー

私の思い出の物はReebokのスニーカーです。今でも鮮明に覚えているのですが、高校2年生のとき、学校帰りにプリンを買いにスーパーへ寄ったら、見かけたお姉さんの足元がすごく可愛かったんです。でも声をかける勇気もなく、盗撮するわけにもいかず、買い物中のその方の靴を5分ほど観察して、こっそりロゴを読み取ったのがReebokとの出会いでした(笑)。Reebokの靴はどれも可愛くて、選ぶのが大変だった記憶があります。それからはその靴で、運動会やねぶた祭、アルバイト、キャンプ、そして富士山まで、気付けば6年間ずっと一緒に過ごしていました。中の型紙が折れて布を突き破っても、当て布をし補修して履き続けたくらいです。デザインが入口だったけれど、いろんな時間を共にしたから、それくらい愛着が大きくなっていったんだと思います。最後は修繕も不可能になってしまい、同じものを探したけど見つからず。写真を撮って、さよならしました。 それから新しい靴を買って履いていますが、あのスニーカーほどの思いは持つことができず、あれは自分にとってなんだか特別なものだったんだと思います。 >その靴と過ごした時間の中で、どんな活動や出会いが印象に残っていますか? そうですね。この靴は季節や場所に囚われずずっと履いていたので、本当に全部が思い出です。大学では、自然学校のNPO団体でボランティア活動をするサークルに入って、子どもたちとキャンプをしていました。自然の中でアウトドアクッキングをしたり、山を登ったり、自然の中で子ども達と過ごした時間は印象に残っていますね。他には東京と神奈川の間を100km歩くチャレンジハイクにも参加して、24時間3分で完歩したときもこの靴を履いていました。企画中に靴の中敷きがすり減り足が痛くなって、近くの靴屋に駆け込んだことも今となっては笑える良い思い出です。他にも富士登山に挑戦したときもこの靴で頂上を目指したし、写真フォルダを振り返ると、本当にどんな場面でも一緒の相棒のような存在でした。 > 元々、自然環境やそのような活動には興味を持たれていたのですか? 特別に、自然環境などの活動に興味が強かったわけではなかったですね。大学では教職課程をとっていたこともあり、サークルを選ぶときも「子どもと関われること」を基準にサークル活動を探していたんです。子どもの頃から火おこしに挑戦していたとか、家族と山登りに行っていたとかはなくて、自然活動はあまり経験がない状態からのスタートでした。それでも、学校の先生になる上で教育的な要素がある場所がいいなと思って、「子どもとキャンプをする」という点に惹かれてその活動を選びました。沢山の学びがあり自然教育の魅力を感じていた時期に、教育実習で授業を行った際に、先生1人に生徒40人という環境の中で、わからなそうな顔をしている子に寄り添いたくても授業の進行を優先せざるを得ない場面に出くわし、やるせなさを感じたんです。そのときに、「学校だけが教育の場じゃないのかもしれない」と考え、放課後の居場所づくりや自然・地域の中で子どもを育てることが自分の理想に変わっていきました。 >学校以外の場所で教育に関わるとしたら、どんな構想やアイデアを描いていますか? 学校の先生になることを諦めたときに、自分が次に何をしたいのかを考えたんです。私は旅行が好きでゲストハウスによく泊まるのですが、ああいう色んな人と交流できる場所が大好きなんです。宿泊する人同士や地域の人が自然に交流している空間を見て、こういう場を作れたら、なんだってできるかもと思うようになりました。宿の収益があれば日中は子どもたちが放課後にふらっと来られる場にも、地域との交流の場にも、みんなのたまり場にもなるんじゃないかと。そんな思いから、大学卒業後はホテル業に従事したり、カナダへワーホリに行ったりしていました。海士町に大人の島留学で来たのはまちづくりの勉強をしたかったからです。今後は自分の目指す宿をまちに根ざした場にするために、隠岐でもう少し地域と教育のことを学び続けていこうと考えています。新しいスニーカーを履いて、隠岐で色んな景色を見て、Reebokのそれを超えるくらいの思い出をつくっていきたいです。

大学に入ってから読み始めた絵本
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大学に入ってから読み始めた絵本

私の思い出の物は絵本です。今持ってる「Butterfly Child」っていう本は、イタリアのボローニャで毎年開催してる国際絵本市に2023年に行ったとき、原画を見て一目惚れした本なんだ!絵本は子どもの頃にも読んでいたけれど、大人になって読み返したときに、子どもにもわかるように書いてある言葉だからこそ、心にすうっと入ってくるものがあるんだと気づいたと同時に、こんなに感じ方が変わるんだと驚いた。中高の頃は本が本当に苦手で、読書感想文すら読むのが嫌で、国語も苦手だったんだよね。「話に起承転結がない」と言われることもあって、文章にアレルギーがあったくらい(笑)。でも、人と話すことは好きで、物語に惹かれる気持ちは残っていた。大人になって絵本を読むと温かさや深さがより感じられて、自分の気持ちと重なる瞬間が多いことに気づいて、それから絵本を読むようになったね。 >大人になって、あらためて絵本に触れるようになったきっかけは何だったんでしょうか? 絵本を読み始めたのは、大学に入ってから。大学の授業は全部英語で、授業内容自体もついていけていないのに、意見も求められること、高校でアメリカ留学をした時に憧れていたチアも、サークルで始めてみたら、体育会系の空気が強くて、そこにも全然合わなかった。そういうのが積み重なって、入学してすぐのゴールデンウィーク明けに大学に行けなくなって休学した。もともと明るくて学校が好きだったから、親もびっくりして、そこから家に引きこもる時期もあったんだよね。そのとき「そういう時期もあるよね」って否定せずに見ててくれた高校の恩師で恩人・かっきー。その人の存在が本当に大きかったんだけど、その方に連れられて一緒に絵本屋さんに寄ったのが、絵本と出会い直す最初のきっかけだった。 >実際に本屋さんを訪れた時、どんなことが印象に残りましたか? かっきーが連れていってくれたのが、吉祥寺にある「緑のゆび」っていう本屋さん。絵本を見ていた時に、店主のおじいちゃんにとっても自然に「どういう関係?」って聞かれて、「高校の恩師です」って答えたら、「恩師って言葉が残ってるのは嬉しいね」って言われて。そのひと言がすごく印象に残ってる。そこで久しぶりに絵本を開いて、子どもの頃に読んだ『ぐるんぱのようちえん』という絵本を読んだら、大人になった今は全然違う読み方になってて、言葉の受け取り方とか居場所の感じ方がグッと刺さったんだ。 >今の慧さんにとって、絵本はどんな存在ですか? そうだね。緑のゆびで「絵本セラピスト」というものを知って。これは絵本について話すことで、その登場人物に自然に自分を投影して話すから、自分の本当の気持ちを自分を入れずに対話ができるっていうもの。自分のことを直接話すのは難しくても、「この登場人物、こう思ってる気がする」って言ってるうちに、気づいてなかった自分の気持ちにも気づけたりする。絵本のやさしい世界を通すことで、心が少しほぐれるような感じがして、その考え方がすごくいいなと思って。だから私にとって絵本は癒しであり、自分に気づくものでもあるんだ。

家を飛び出した時に母から送られてきた手紙
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家を飛び出した時に母から送られてきた手紙

思い出の物は母からもらった1通の手紙やね。高校を卒業してすぐに大阪に出たけど、同い年の友達はみんな頼れるやつになっていった。自分だけそこに置いていかれたような、どうしようもない孤独感があったと思います。そんな時、親が手紙を送ってきたんやと思う。22歳頃は好き勝手に生きていて、社会の厳しさなんて全然分からなかった。 >その時のこと、覚えてる事を教えて下さい。 普段、連絡なんてしないけど、何故かふと電話して、出たのはおかんで、話した内容は本当にたわいもない会話で、「元気してる?」「ちゃんとご飯食べてる?」そんなことだけ。 迷惑ばかりかけてるから叱られると思ってたのかな。でもその時おかんに「思うがままに生きなさい」って言われたんだよ。こんな自分をずっと応援してくれるのに、何も返してやれなくて、とにかくそれが辛くて、自分が腹立たしかった。 >お母様と電話されたことで、ご自身の中で何か変化はありましたか。 おかんに「思うがままに生きなさい」って言われた時、正直救われた気がしたんだわな。肯定してもらったような、すこし自信も持ったかな。でも現実は全然上手くいってなかった。 24歳の時に結婚したんだが、29歳で離婚してしまった。さすがに行き詰まって隠岐島に逃げ帰ったんだ。でも保育所から一緒だった友達に「田舎を舐めんな!お前は苦労した気になってるだけだ!まだ帰ってくる時じゃない!大阪帰って一旗上げてから帰ってこい」って叱られて大阪に追い返されたんだ。今思えば縁のおかげで、本当の友達に会えたと思うわ。それから大阪で死に物狂いで働いた。 >縁はどんなものだと考えていますか 人生を振り返ると、全部、縁やなと思う。大阪に追い戻された後、死に物狂いで働いて、借金の目処も立ってきた頃、34歳の時、会社が倒産した。いい出来事の縁とは言えないが、これも一つの縁や。それもあって家族や友達に「隠岐で仕事を探したい」って電話した。そしたらみんなが「いい事だ!一緒に頑張ろー!」と言ってくれて、隠岐に帰ろうと決めた。隠岐に帰って郵便局のバイトに入った。それから、2年くらいで社員になれて、3年後に西ノ島の浦郷に転勤になり、2年半で海士町の菱浦に転勤。郵便局で働いて18年を超えた。これだって色々な縁が重なって起きた事だわな。そういう意味で言うと、自分の想い出の物は母からの手紙でもあるが、たくさんの人との縁、たくさんの出来事との縁やな。全ての縁が自分を育ててくれた。縁とは、自分の人生そのものかな。

不思議な縁がある腕時計
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不思議な縁がある腕時計

私の思い出の物はカシオの腕時計です。今使っているのは4〜5代目くらいで、最初は大学受験のときに母が買ってくれたものでした。軽くて見やすくて、防水もあって、傷だらけになっても壊れないところがちょうどいいんです。何回も同じ物を買い替えて使っています。 >何度も買い替えていると仰っていましたが、どのようなタイミングで買い替えられているのですか? この時計は今まで一度も壊れたことはなくて、いつもなくすんです。受験が終わった後、大学でうまくいかなかった時期、休学中など、振り返るといつも人生の区切りのタイミングでした。何かが終わって、次に移る前に代替わりする時計なんだなあ、と感じています。また、私はもともと人に話しかけるのが得意な方ではありません。でもこの時計は同じのをつけている人が結構いて、それが自然に話すきっかけになることもありました。 >そんなふうには、今お話を聞いていると全く感じないです。 本当ですか。ありがとうございます。地元の神奈川にいた頃は、家族や友達など、同じような価値観の人たちと過ごすことが多く、コミュニケーションに苦手意識がありました。「井の中の蛙」みたいな状態がこのまま続くのが少し怖くて、海士町に来ました。 >今の海士町での暮らしの中で、その感覚はどんなふうに変わってきましたか? 海士町では、日常の中で自然に会話が生まれます。天気やご飯のこと、ちょっとした世間話など、何気ないやり取りの中に発見があって、単純に人と話すのって楽しいな、と思うようになりました。

ホテルマンになる時に姉からもらったボールペン
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ホテルマンになる時に姉からもらったボールペン

僕の思い出の物は、PARKERのボールペンです。20歳の頃「一流のホテルマンになるならいいボールペンを使いなさい」と言われて、誕生日に姉から貰いました。時計みたいにそんなにすぐ修理が必要になったりするものじゃないけど、少し壊れた時にはずっと自分で直し続けて使っていますね。 >ホテルマンという仕事を目指したきっかけは何だったんですか? 父がホテルマンで、子どもの頃に働いている姿を見ていたのが大きくて。家にいる父とはまた違って、黒服を着てゲストの前に立っている姿がすごくかっこよく見えたんです。サービス業って何なのか当時は分からなかったけど、人を迎える仕事って楽しそうだなと思って。高校の頃にはもう進路を決めていて、大学に行くよりもホテルの現場で働きたい気持ちが強くて専門学校に進んだんです。その後、東京や京都、沖縄、海外も含めて、気づけば10社くらいのホテルを経験してきました。 >これまでの経験の中で、大きな転機になった出来事は何でしたか? 38歳のときに、初めて総支配人(GM)になったことです。昔は若い人でGMになる人は少なく、50歳くらいが当たり前でした。昔から、現場で一番お客様を見ているのは「実は若いスタッフだったりするんじゃないか」と思っていて。だからこそ、若いスタッフの声をもっと現場に反映させたいという思いがありました。その声をちゃんと受け止められる立場に立つために、36歳でGMになることを目標としていました。 >伊藤さんにとって「いいホテル」「いいサービス」とは何ですか? マニュアル通りじゃないサービスができるホテルだと思っています。お客様が10人いれば、10通りのサービスがある。リゾートなのに堅すぎたらくつろげないし、逆に軽すぎても満足してもらえない。その人が今、何を求めているかを感じ取って動くのが仕事だと思っています。地域とも同じで、ただ観光地を紹介するだけじゃなくて、住んでいる人たちと顔の見える関係をつくることが大事。旅先で、その土地の人と一緒に何かをした記憶が残るホテルを、これからもつくっていきたいですね。

甲州印伝の名刺入れ
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甲州印伝の名刺入れ

私の思い出の物は、甲州印伝の名刺入れです。これは私が京都のホテル開業に携わっていた時に、たまたま寄ったお店で見つけたものなんです。鹿革に漆で模様が描かれたもので、赤とベージュの麻の葉模様は京都限定だそうなんです。東京で生まれ、山梨で育った私にとって、山梨の伝統工芸が京都で別の形として並んでいるのを見たとき、すごく惹かれたんです。仕事でいつも持ち歩く名刺入れだからこそ、自分が愛着を持っている土地の工芸品を使い続けたいと思って。仕事で使う機会も多いので、名刺入れからルーツを語ることができたりするんです。 >京都でのホテル開業ではどのようなことが印象に残っていますか? そうですね。もともとは、ずっとデザイン関係の仕事をしてきました。京都では、大学の研究室を経てITの会社でアートディレクターをしていたのですが、友人からの紹介をきっかけに新しい分野に挑戦しました。そこで初めてホテルの”マーケティング”に携わることに。一見、マーケティングとデザインはまったく違う分野に見えるのですが、やってみると共通している部分も多かったんです。また、京都で働いていた頃は、どんな場面でもつながりがとても大事だと感じましたね。仕事の打ち合わせのアポ取りでも「どなたのご紹介ですか?」と聞かれることが多くて。最初はとても驚いたのを覚えています。東京のように電話一本では進まず、人と人との関係を通して信頼を築く、そんな文化が根づいているなと思いました。 >マーケティングとデザイン、どんな部分が似ていると感じましたか? どちらも「問題を解決するための手段」という点で同じだと思っていて。デザインもマーケティングも、情報を集めて整理し、方向性を決めて形にしていく。その流れ自体は変わらないんです。そのために、“何を解決したいのか”“誰にどう届けたいのか”を考えるんです。私はずっと、デザインは”情報を整理して再構築するプロセス”だと思っていて、その考え方は、マーケティングにもそのまま通じていたなと感じています。最初に「目的」や「課題」を見つけるところから始まるんです。だから私は、どの分野でも“デザインするように考える”ことを大切にしてきました。デザインって、見た目を整えることじゃなくて、状況を観察して、そこから最適な形を導き出すことなんです。 >デザインの分野に関わられる中で、浅川さんが大切にしていることは何ですか? 「素直な目」と「オタク心」です。どんなことにも、先入観を持たずにフラットに見ること。そして、気になったものはとことん掘り下げること。子どものような素直さと、オタクのような探究心。その二つがあれば、どんな分野にもデザインは息づいていると思います。

桜の開花の様子をまとめたアルバム
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桜の開花の様子をまとめたアルバム

私の思い出の物は、隠岐神社にある桜の開花の様子を毎日撮ってまとめたアルバムです。一昨年、桜は隠岐神社の象徴のような存在だなと思い、これはちゃんと記録して残しておきたいと思って作りました。私は元々、家が隠岐神社のすぐ近くにあって、神社そのものがずっと日常で、自分の一部のような存在で。離島して、本土に住んでいた頃は桜の時期になると、自然とそわそわして落ち着かなくなる感覚がありました。   >その「そわそわする感じ」は、どうして生まれていたと思いますか? 正直、はっきりした理由は分からなくて。子どもの頃から見てきた風景だからなのか、それとも隠岐神社に誘われているような感覚なのか、どっちなんだろうって今でも思います。ただ、その感覚がずっと続いてきたからこそ、今こうして隠岐神社の仕事に関われているのかな、とも感じていて。振り返ると、偶然というよりは、ちゃんと線でつながってきたような気がして、今はその場所でガイドとして働けていることに、すごく納得しています。   >隠岐神社の観光ガイドとして、大切にしていることはどんなことですか? せっかく海士町まで来てくれたんだから、最後まで気持ちよく楽しんで帰ってほしい、ということを一番大切にしています。以前、観光ツアーに参加されていた女性がサングラスを忘れていかれたことがあって。次のツアーまで15分しかなく、その女性もツアー後、フェリーの乗船に向かっていたこともあり、間に合うかどうかわかりませんでした。でもそのまま帰るより、ちゃんと届けた方が気持ちよく終われるんじゃないかと思って、急いで届けに行ったんです。そうしたらギリギリ間に合い、本当に喜んでくださって。その反応を見たときに「ああ、やってよかったな」と思いました。   >こうした関わり方は、本土(都会)と海士町で違いがあると思いますか? 田舎だと、会って終わりにならないことが多い気がします。「どこから来たんですか」とか、「何をしている人なんですか」とか、自然と会話が生まれていく。時間としては短くても、ちゃんと人と人として向き合う感覚があるんですよね。都会では会う人数は多いけれど、どうしてもすれ違って終わることも多かったなと感じていて。島では、一つひとつの出会いがもう少し近くて、その分、一期一会でも気持ちはつながっていると思います。

著者と同じように旅をした紀行文
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著者と同じように旅をした紀行文

東京の古本屋で買った、新潮社の紀行シリーズ「ふるさと日本紀行」です。40年ほど前に出た本で、4人のカメラマンがそれぞれの感覚で日本各地を巡っている紀行文なんですが、これを読んだときに、ただ面白いなと思っただけじゃなくて、この通りに行ってみたいなと思ったんですよね。どこへ行くかを自分で決めて旅をするんじゃなくて、この本を設計図みたいにして、書かれている順番や感覚をなぞるように旅をするようになって。 > この本を手にして旅をすると、普段の旅行とはどんなところが一番違いましたか? 一気に移動する旅じゃなくなるところですね。この本が書かれた頃は高速道路も今ほど整っていなかったので、旧道を通って、人に道を聞きながら進む旅になるんです。本に出てくる宿や店がもう無くなっていることも多くて、看板だけ残っていたり、跡地を探し回ったりすることもありますね。そうすると自然と現地の人や役場の人に話を聞くことになって、観光地を見て回るというより、その土地で生きてきた人の話に触れる機会にもなりました。 > あえて自分で行き先を決めずに、本に書かれている通りに辿る旅について、どんな面白さを感じましたか? 自分の好みだけで旅をしていると、どうしても世界は狭くなっていくと思うんです。でも、この本に出てくる場所は、必ずしも自分が選ぶような場所じゃない。4人のカメラマンがそれぞれの感覚で選んだ道や土地を、そのまま信じて辿っていくと、思ってもみなかった場所に連れて行かれる感覚があります。他人の思考回路に一度身を預けてみることで、自分の世界が確実に広がっていく。その感じがすごく面白いんですよね。 > 旅以外でも、世界を広げるために何かしていることはありますか? 油絵を描いてみたり、ギリシャ語を勉強してみたり、言語や歴史に触れたり、いろいろやっています。世界中のことを知りたいという気持ちはずっとあるんですけど、全部の場所に行けるわけでもないので、別のやり方で世界を広げてきた感じです。そうやって集めた知識は、最初はバラバラな点でしかないんですけど、あとからふとした瞬間に線になってつながることがある。その瞬間がすごく好きなんです。

人生も飾られるお皿
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人生も飾られるお皿

思い出の物は、自分で買い集めてきたお皿です。社会人になってからお弁当を作るようになり、料理を楽しもうと思うようになったのがきっかけでした。お気に入りのお皿が欲しくなって、勤務先の近くにあった鎌倉でいくつか器を買ったんです。今は海士町で暮らしていますが、最初に来たときはそのお皿を持ってきておらず、あとから実家から送ってもらっていました。 >最初からお皿は持ってこられなかったのですか? 最初は、シェアハウスにある備品のお皿で十分だと思っていました。実際、生活すること自体には何の不便もなかったんです。ただ、しばらく暮らし てみると、食事の時間がどこか落ち着かない、というか、つまらなく感じるようになってきて。それで母に連絡して、実家に置いてあった自分が 買ったお皿を送ってもらいました。 >実際にお皿が届いてみて、どんなことを感じましたか? 自分が「素敵だな」と思って選んだお皿で食べることには、ちゃんと意味があったんだなと気づきました。備品のお皿が悪いわけではないんですけど、自分で選んだお皿に盛ると、食事の時間がきちんとした時間になる感じがして。最近は、お皿を見ているだけで、これを盛り付けたいなとか、これを食べたいなとか、自然と想像が広がるようになってきていて、その感覚がすごく好きです。きれいに盛ることで、人生も少し彩られるような気がしています。 >人生も彩られる。素敵な表現ですね。 自分はわりと自由で、放っておくとルーズになりがちな性格だと思っています。だからこそ、自分で選んだ器や、食事を整える時間があることで、気持ちが落ち着き、生活に秩序や区切りがつく。それによって食事だけでなく、人生も彩られていくような気がしました。

お金のなる木
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お金のなる木

この「お金のなる木」ですね。私が諏訪苑(海士町の特養ホーム、グループホーム)に勤めている時に、地域の方から15年前の夏頃にいただいたものなんです。「諏訪苑がずっと残っていくように」と“思い”を込めて譲ってくださいました。でも、その翌年にうっかり真冬なのに外に出しっぱなしにしてしまい、枯らしてしまったんです。たった2枚の葉っぱしか残らなくて。でも、せっかく地域の方からいただいた“思いのこもった”木を諦めるわけにはいかず、大事にこうして育て続けています。いつか大きくなってまた諏訪苑にある大きな鉢に戻すのが夢なんですよね。 >働き始めた頃を思い返すと、どのようなことが印象に残っていますか? 正直、1年目はずっと「もう辞めたい」と思っていました。実際の介護の現場は想像以上に過酷で、食事介助や入浴介助、排泄介助の繰り返し。何のためにやっているのか、分からなくなるほどでした。 でも、その時に海士町で暮らそうと思った原点に立ち返ったんですよ。素晴らしい景色や優しい人が溢れた「この島で亡くなりたい」という“思い”を改めて思い出して。でも、悲しいことにその時は、自分が勤めている「諏訪苑では、死にたくない」とも思ってしまいました。それなら、自分が諏訪苑を変えて、「ここで最後を迎えたい」と思える場所にしようと思ったんです。 >具体的に、どのようなことを変えられましたか? そうですね、本当にたくさんのことが変わりましたが、例えば食事介助です。以前は、4人の利用者さんに半円状になっていただき、職員が立ったまま同時に食事介助をしていました。効率的ではあるけど、利用者さんの“本当の想い”を尊重するなら、「その形でいいのか」と疑問を持ち「一人ひとり、ちゃんと向き合って食事介助をする形」に変えました。入って間もない新人が、生意気にも先輩方に意見していく。本当に優しい先輩方や仲間に恵まれていたからこそ、一緒に変えていくことができ、感謝しかありません。 >涌井さんが大切にしている「想い」とは何でしょうか? 結局、私が大切にしているのは「人の想いを受け継ぐこと」です。このお金のなる木も、地域の方の“想い”を受け継ぎ、大事に育て続けています。色々な利用者さんと関わっていく中で、福祉を守ることは、故郷を守ることだと気づきました。福祉が整っていない場所では、安心して暮らすことは難しい。だからこそ、色んな方の“想い”が詰まったこの故郷の福祉を、絶対に失わせたくないと思っています。

ゴミと呼ばれるような物を貼っているパソコン
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ゴミと呼ばれるような物を貼っているパソコン

このMacbookの背面に貼ってある、ステッカーとかラベルかな。海士町にきて少し経った頃は「人間が無意識のうちにゴミを生み出して生活していること」に対して憤りを感じていたんだ。今の人生での主軸は変わったけれど、その時の、人生での主軸は「自然に優しい暮らし」だったから。そんな中で、「ゴミと言われるような物をパソコンに貼っていったら、面白いんじゃないか」という軽い思いからパソコンに貼っていった。 >初めて貼ったステッカーなんですか? 一番初めは、後鳥羽院顕彰事業記念ステッカーの外枠だったね。これが捨てられているのを見て、ステッカー本体がいい物、外枠が悪いものとされているのが嫌だったから、貼ったんだよ。それから野菜を束ねるシールとか飛行機の機内食のシールなど色々貼ったね。今考えれば、憤りの吐口とまではいかないけど、自分の憤っていることを表現したかったのかな。誰かに見てもらうために、というよりは自分に対してだったから、一番身近でよく使うものに貼ったんだ。もちろん、誰かがパソコンに貼っている物を見て「ん?」と思ってくれても面白いとも思っていたけどね。 >今の人生での主軸はなんですか? 今は「自分が納得できる人生を作ろうとする気持ち」が一番大切だと思ってる。前は「これが正しい」と世間で言われていて、正しいと思い込んで作ることを主軸としてきた。だけど今はそうではなくて、自分がどうしたいか、どう感じるかを大切にしているね。誰かの正解に合わせるんじゃなくて、自分が納得できる人生を作っていきたい。その価値観に変わったのは、もちろん徐々にだったけれど、海士町に来たことも大きかったし、それだけじゃなくて「Your Life As Art」という本の影響も大きかったね。今は、スケッチするように人生を考える感覚があって、何度も描き直せばいいと思っていて、納得する自分の人生を少しずつ作っていこうとしてるところかな。 >これ以前にも何度か主軸の変化はありましたか? 僕は自分の人生を“バージョン”で考えていたことがあり、久しぶりに思い出したんだけど、今はVer.4.5くらいなんだ。最初のVer.1は30歳くらいまでで、その頃はお金を稼ぐことや、他人を道具のように使うことばかり考えてた。その後、30代前半でフィリピンに渡って会社を立ち上げたけど、採用した人たちが次々に辞めて、自分も会社に行きたくなくなるくらい行き詰まったんだよね。それがきっかけで「自分とか他人の幸せって何だろう?」と考え始めてVer.2に変わった。その後、バンコクにいた30代後半の頃は、「こうやったら幸せになれるだろう」という仮説を持ちながら、仕事よりもライフを大事に生きていこうと思ったんだけど、それがver3。ステッカーを貼っていたのは、これから少し経った後だね。それからさっき言ったような影響で、今はver4.5なんだ。

自分と主人公が重なって見えた小説
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自分と主人公が重なって見えた小説

この小説「君を守るために、僕は夢を見る」だね。小学4年生のときに図書館で表紙とタイトルに惹かれて、何気なく読んだのがきっかけだった。少し非現実的な世界線のお話だけど、素敵な恋愛小説で小学生の頃からずっと、自分の中で印象深い本だね。数年に一度は、本を開くくらい大好きだし、大学の卒業論文でもこの小説について書いたんだ。 >初めて読んだときは、どんなところが心に残ったんでしょうか? 初めて読んだのは小学生の頃だったということもあり、純粋に「かっこいいな」「こういう恋もしてみたいな」と思っていたね。この小説は主人公が小学生から大学生になるまでのお話なのだけど、読んでいる内に「おおきくなる」という言葉が何度も出てきたのはずっと覚えているよ。初めて読んだ小学生の頃と物語の始まりの主人公の年齢と近かったこともあって、自然と自分を重ねて読んできたんだよね。 >今の自分にとって「おおきくなる」というのは、どういう意味だと考えられていますか? 今はまだ、分からないな。ずっと「おおきくなる」という意味を探していたんだけどね。今考えると、海士町に来た理由もおおきくなるとは、どういうことか見つけに来たんじゃないかとすごく思うよ。でも、海士町に来てから、色んな方から「答えがあることが全てじゃない」と教えてもらって、「おおきくなるってどういうことなんだろう」と問い続けることが幸せだと思った。この海士町にいる1年間もおおきくなるとはどういうことかを問い続けて行動しているんだ。 >具体的に海士町でどのような行動をされていますか? 何もせずに止まってたら、過去の経験からしか意味を問うことができない、という思いから1mmでも興味を持ったことにはすぐ挑戦しているね。プライベートなところだと、畑を始めたんだ。住んでいる東地区のシェアハウスの近くに空いている土地があって、たまたまその土地の管理者の方とお話する機会があり使わせていただけることになったんだ。雑草だらけだったところから畑を起こして、今は夏野菜を植えているよ。あとは海士町って毎週のように何かしらのイベントがあるから、できるだけ参加するようにしている。例えば、海士町に来る前から環境問題には関心があったから、毎月ビーチクリーンのイベントにも参加しているよ。色んな事を見たり、触れたりして新しいことを知らないと本当の意味で問うことなんてできないからね。

イベントに参加するきっかけになったパソコンケース
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イベントに参加するきっかけになったパソコンケース

私の思い出の物は、去年の秋に「しゃばりば」でのワークショップで作ったパソコンケースです。実はイベントに参加するのは苦手で、土日は基本的に家に引きこもっていたんです。だけど私は”もの作り”が好きだったので、このイベントに参加して。パソコンケースに使用した素材は、海士町に住んでる人の不要になった服を集めて、繊維を粉々にしてもう一度“紙みたいな布”にした素材でした。自分で穴を開けて紐を通して仕上げました。見た目は柔らかそうなのにすごく丈夫で愛用しています。 >他にもこういったもの作りはされているんですか? 海士町に来てからは古民家のシェアハウスに住んでいるのですが、海岸清掃で拾ったネットのようなものを工夫して、インテリアに使ったりしました。また、その家をどうお洒落にするかみたいな”空間づくり”にもハマっていきました。リビングがなかったので、廊下をみんなが集まれる場所にしたり、あるもので空間をかわいくするのが好きなんです。そうやって空間づくりにハマっているときに読んだ『一階づくりはまちづくり』という本に、パリでは1階がまちの共有スペースになっているという話があるんですよね。それを読んでいるうちに「シェアハウスの1階も少し開いてみてもいいのかも」と思って。明かりをつけて外に椅子を置いておくと、人がふらっと寄ってくれるようなことがあって、そういう場づくりがどんどん面白くなっていきました。 >1階を開いてみたことで、印象に残っている出来事はありますか? シェアハウスの縁側で本を読んでいて、まわりに椅子をいくつか置いていたんです。そしたら地域の方が魚を持ってきてくれて。私が「魚の捌き方がわからない」と言ったら、次に来た地域の人が捌いてくれました。夜にはまた違う人が来て一緒に食べたりして、”魚が来て、刺身になって、最後に一緒にご飯になる”みたいな流れが、自然に起きたんです。光に虫が集まるみたいに、ちょっと開いているだけで人がふらっと寄ってきて、その偶発的なつながりがすごく楽しかったです。 >空間づくりという面で、これからやってみたいことなどはありますか? 私の場合は、誰かと交流するために工夫して場をつくっているというより、まずは自分が楽しくてやっていることが先にあるんです。家をかわいくしたいとか、たい焼きを外で焼いて、匂いで人が寄ってくるのか試してみたりもしました。そういうやってみたいから始まっていて、その先にたまたま人との出会いが生まれたらうれしいという感覚に近いです。ちょっとだけ空間をひらいておくと、さっきの縁側みたいに偶発的な出会いや交流が生まれることがあって、それがすごく好きなんですよね。無理に集めようとするのではなく、来たいときにふらっと来られるような、気軽な空間が作れたらいいなと思っています。

親孝行できなかった父の遺影
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親孝行できなかった父の遺影

思い出の物は父の遺影です。僕は去年の2月に海士町に来たのですが、それから少し経った8月に父が亡くなりました。過去に色々迷惑をかけてきて、2年以上連絡していなかったのに、亡くなる前日に父から電話が来ていたんです。だけど迷惑をかけてきたことに負い目を感じていて、電話を取ることはなくて。だから父は僕が海士町にいることさえ知らなくて、父の死は警察や親族から知りました。死に目にも会えず、今でも「なんで電話に出なかったんだろう」と後悔しています。海士町へ行くことは父だけでなく周りの人へも伝えず、逃げるように来ました。 >お父様はどんな方だったのですか? 父は真面目な人でした。お酒やタバコを吸わないとかそういう意味ではなくて、根が真面目だったので人を信用しすぎて、騙されたなんてことも何度かありました。だから僕がどれだけ迷惑をかけても最後まで見捨てずに居てくれたと思います。でも父は祖母より早く亡くなってしまい、とっても後悔したと思うんです。最後まで見捨てずにいてくれた父のために、父ができなかった祖母への親孝行を僕がしたいと思っています。それが父への孝行になるとも思っているんです。 >過去のことも全て隠さずに話そうとされているのは、どのような思いからですか? そうですね。本当に色々な人に迷惑をかけたから、米子とか境港にいる人でいまだに僕のことを許していない人もいると思うんです。前にも無名人インタビューというインタビューにも出ましたが、記事を見たら嫌な気持ちになると思います。だけど、反省も含めて自分がこれまで歩んできた道として残しておきたいと思いました。人に話すことで贖罪じゃないけど、自分の中だけで留めておくと心が折れそうになることもあって。 >インタビューだけでなく、海士町の方にもお話されることもありましたか? 僕は海士町に来てから過去の自分も全部知っていて欲しいという思いから、正直に包み隠さず生きようと思いました。特に、僕が働いている諏訪苑の仲間には細かく話し、相談することもありましたね。地元の職員の方が自分の子供のように可愛がってくださり、「野菜できたけど、いる?」などといつも気遣ってくださり支えになっています。

教員試験を受験した日に父からもらったカバン
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教員試験を受験した日に父からもらったカバン

私の思い出の物は、このカバンです。教員採用試験を受けたその日の夜、父から突然プレゼントでもらったんだよね。普段は物を贈らないような、寡黙でまじめな人だったので本当に驚いて。その年は不合格でしたが「もらったからには次で合格しよう」と腹が決まって。翌年に合格し、それ以来12年、このカバンは仕事の相棒として使い続けているんだ。もう金具の塗装ははげ、角は丸くなってるんだけどね。 >教員という道を選んだ、きっかけは何ですか? 大学では理学部化学科で、ずっと研究者を目指して実験と論文に向き合っていたんだ。大学4年のとき、「自分は物より人と関わる仕事がしたい」とはっきり気づいて。小中の頃から先生への関心はあったのに、高校時代は親の期待に反発して気持ちを封印していたのだと思うね。そこで親に頭を下げて大学院に進み、専修免許状を取得。教育実習に入り、教室で言葉と表情が立ち上がる瞬間に触れるたび、「自分と向き合うのが少し遅かった」という反省もあったけど、「やっぱりこれだ」とも思って。 >教員として生徒への関わり方などで大切にしていることは何ですか? そうだね。できるだけ“管理しすぎない”ことかな。大人には「そこは転ぶよ」と見えても、先回りして柵を立てれば、生徒は、自分の足で確かめる機会を失う。本当に立ち直れなくなったときにそばにいる、そういう位置に居ようと意識しているね。元々私自身が、中学の体育祭で、音楽・振り付け・運動、みんなの良さを組み合わせてひとつの形にした経験が原点なんだよね。多様なピースが噛み合うと想像以上のものが生まれる、その驚きを生徒にも手渡したい。だから指示を増やすより、本人の手触りと納得に届く問いと場づくりを増やそうとしているね。   >仕事などに向かう際、このカバンを見るとどんなことを思い出しますか? カバンを見ると、まず教員採用試験を受けた日の夜に、父からこのカバンをもらった時の状況を思い出す。あとカバンってすごくて、仕事用だと大事なものをいろいろ入れるんだけど、なぜかずっと入れっぱなしの物もあるんだよね。例えば、前に担任した学年の「夢探究」論文集とかも。この冊子は、その生徒が高校生活でしてきた探究活動について書かれているんだ。この探究って本当にその人が好きなこと、だからページをめくると、「ああ、この生徒はこうだったな」とその生徒の顔と好きだったことを思い出す。一通りはもちろん読んでいるけど、ふとした時にパラパラと見返すこともあるんだよね。家で保管すればもっと綺麗な状態で残せるんだろうけど、なぜかこのカバンに入れているね。

1から自分で組み立てた自作PC
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1から自分で組み立てた自作PC

この自作したパソコンですね。今も使っているこのパソコンは、10年以上前に組んだケースをベースに、中のパーツを入れ替えながら育ててきたものです。高校生の頃に初めて自作に挑戦してから、これまで数えきれないほど組んできましたが、長く使い続けているという意味で特別ですね。初めてパソコンに触れたのは小学生の頃で、MSXという古いパソコンで遊んだことが始まりでした。 >パソコンを自作したきっかけは、どんなことだったんですか? 小さい頃から、「パソコンがどうやって動いているか」に興味があったということが大きいですね。それから色々なパソコンに触れていく内に、自作パソコンを作ってみようと思いました。秋葉原まで行ってパーツを買い、組み立てたのが最初でしたね。数えきれないほど作っていたので、色々なトラブルもあって。パソコンが燃えたり、コードが焦げたり、いろいろ経験しました。でも、壊れたら原因を探して直して、またアップデートするというのも楽しかったですね。 >パソコンの発売当初から色々なパソコンに触れられていますが、一番印象に残っていることはなんですか? そうですね。高校生のときに使っていたPC-98というパソコンでは、本当にインターネットに夢中になっていましたね。まだダイヤルアップ接続(電話回線でネットに繋ぐ昔の方法)の時代で、電話とネットが同時に使えなくて、通信中に電話がかかってくると切れてしまうなんていう仕様もあって(笑)。そんな環境でも、サイトのチャットに入り浸ってて、月7万円の請求が来て怒られたなんてことも覚えていますね(笑)。そのくらい夢中になっていたんですよね。本当に、自分の世界が広がっていく感覚が楽しかった。 >これだけ情熱を注いできたパソコンを、仕事にしようと考えたことはありましたか? 一度だけ、プログラミング会社に入ったことがあったんですが、やっぱり仕事になると「やらなければいけないという義務」になってしまうって感覚が強かったですね。僕にとってパソコンは、大好きで自由に好きな時間、触っていたいもの。今でも、仕事が終わったら基本パソコンに座って、寝る直前まで画面の前にいます。好きなことをずっと好きでいたい。そのために、“趣味を仕事にしない”ようにしていますね。

オリンパスのカメラ
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オリンパスのカメラ

このカメラですね。今使っているのはオリンパスの3代目で、旅行にも仕事にもいつも一緒に連れて行っています。社協(海士町の社会福祉協議会)の広報用に写真を頼まれることも多くて、よく写真を撮っています。カメラに興味を持ち始めた頃は、カメラをデザインの可愛さで選んでいたんですけど、撮っていくうちに「もっとこうしたい」と欲が出てきて。気づけばレンズも望遠、単焦点、マクロ…と増えていきました。 >カメラに本格的に関わるようになったのは、いつ頃からだったんですか? きっかけは、大学卒業後に就職したヨドバシカメラです。私は中国の大学で中国語を専攻していたんですが、卒業後は新宿のヨドバシカメラに就職して、カメラ売り場に配属されました。当時はインバウンド需要がすごくて、中国人観光客向けにカメラを販売していたんです。接客しながら自然と機種やレンズの知識も増えていき、自分でも使ってみたくなって。それで自分のオリンパスを買ったんです。あと父が映像関係の仕事をしていて、小さい頃から写真やビデオが身近だったということもあると思います。 >これまでで、中国以外で住んだことのある国などはありますか? そうですね。中国以外にも、北海道や沖縄など国内を転々としたり、マレーシア・カナダなんかにもワーキングホリデーで住んでいました。現地で働いたり暮らしたりすることで、その国の人の暮らしに触れられるのが好きなんですよね。カナダにいた時は、国立公園近くで自然に囲まれた生活を満喫してました。どこへ行くにも「嫌だったら帰ってくればいい」という気持ちがあるので、色々なところにフットワーク軽く動けるんですよね。実際のところ、行ってみて嫌だったということはあまりなくて、どの場所にも全部「行ってよかった」と思っています。 >日本国内に留まらず、色々なところに住まれる理由はなんですか? 私は「人と関わること」が好きだからですね。旅行先で見る景色も素敵だけど、その土地の人と一緒に暮らして、話していく中で、初めて「その場所のことを本当に知った」と思える気がします。中国やマレーシア、カナダでもたくさんの国籍の人と友達になって、今でも連絡を取り合っていますね。海外に出て価値観が変わったという人もいますが、私の場合は特別、誰か一人に価値観をガラッと変えられたわけではないけれど、出会った人すべてから少しずつ影響を受けて、今の私ができていると思っています。

現代詩集から好きな詩を抜き出した自作の詩集
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現代詩集から好きな詩を抜き出した自作の詩集

この詩集です。これは中学3年生の国語の授業で、現代詩集で好きな詩を抜き出し作った自作の詩集なんです。詩集には選んだ詩への感想であったり、詩の情景に合うような絵を描きましたね。 >どのような詩を選ばれたんですか? 共通した特徴として、詩がよまれた時代や場所を問わず、自然の移ろいを感じながら私が凛と生きていることが感じられる詩ですね。今の海士町で言うとEntôの「地球にぽつん」を感じられる詩です。圧倒的に広く・長い時間が流れた地球の中で私が今この場所にいると感じられるもの。 >そのような詩は今のご自分にどんな影響を与えられていますか? 例えば、この詩を書いた人はもう死んでしまっているかもしれないけれど、今これを読む私達は詩が読まれた時の自然の移ろいを感じ、また新しい想像が生まれたりする。だから、詩を通じて時や場所を越えて想像のバトンが渡ったりして、面白いのかもしれないな。 >時や場所を越えて想像のバトンが渡るとはどういったことですか? 例えば、これまでは形が特にない詩の話だったけれど、形がある「モノ」を介して想像のバトンが渡る場づくりを最近、友人と始めたんですよ。サザエの殻であったり、シーグラス、松ぼっくり、ビーズなど海士町に縁のある素材をみんな持ち寄って遊んでいます。海士町中央図書館の館長である磯谷さんに共感と応援をいただいて、図書館の新しく増えた部屋の一角で始めました。

デイサービスの利用者さんからもらった手紙
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デイサービスの利用者さんからもらった手紙

この手紙です。私は元々、東京のデイサービスでインストラクターをしていました。その時にご利用者の方からいただいた手紙なんです。どちらの手紙も退職後にわざわざ郵送で送ってくださったもので、今でも大事に持っています。10年以上前の手紙ですが、読む度にそのお二人の顔が浮かんできて、今でも応援されてるような気持ちになりますね。 >普段から手紙のやり取りをされていたんですか? そうですね。昔から節目に手紙を書くことが習慣になっていて。高校時代は部活の風習で、大会前に先輩宛に手紙を書いたりしていたし、社会人になってからも退職のときや異動のときなどにはよく書いていました。東京のデイサービスでは、毎月100人近いご利用者の方に運動プログラムと一緒に3行ほどの手紙を添えて渡していました。 >介護の仕事を始められたきっかけはなんでしたか? 私は大学時代にクリケットをはじめて、日本代表選手として活動もしていました。でも30代手前で一度クリケットを引退したんですよ。その時に、あえてその当時、一番人生でやりたくなかった介護職を選んだんです。沖縄で初めてご利用者の排泄介助をさせていただいたとき、「ありがとう」っておっしゃってくださって。その言葉がそれまでの人生で一番嬉しかったんです。ご利用者の方は、もしかしたら本当は助けてもらうこと自体が嫌だったり、葛藤や恥じらいを抱えながら、それでも「ありがとう」と伝えてくださって。それがどれだけ尊いかを初めて知った瞬間でした。 >なぜ自分が一番やりたくなかった職を選んだのですか? 人生の中で大きな選択の時、いつも私は”面白い”と思う方を選ぶようにしているんです。何か自分が好きなことだけをしていても、なんとなくその後のイメージができてしまうことがあって。それって”面白くないな”って思うんです。だからクリケットの時も、日本で競技人口が少ないから選んだというのも一つの理由ですね。介護職も一番やりたくなかった仕事だからこそ、その仕事をすることで自分にどんな変化があるか想像できなくて逆にワクワクしたんだと思います。

3回の引越しも経て、持っていきた相棒のピアノ
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3回の引越しも経て、持っていきた相棒のピアノ

このピアノだね。私は3歳からピアノを習っていたんだけれど、幼稚園の頃に両親が買ってくれたものなんだよね。すごく良い物だし、そんな簡単に買える経済状況でもなかったから頑張って買ってくれたんだと思う。それから数十年が経って結婚した後には、3回も引っ越したんだけれど、毎回運んだね。海士町に移住する時に引っ越し業者を使うと、とても高いから2tトラックを借り、お互いの父親を呼んで他の荷物と一緒に運んだんだよね。 >ピアノはいつ頃まで習われていたんですか? ちゃんと習っていたのは高校生までだけど、細々とずっと習っていたね。働いていた会社は夜遅く、終電まで働くみたいな会社だったの。だから、会社の近くで習えるところを見つけて、仕事の合間にレッスンに行って、また会社に戻って仕事をするということもしていた。やっぱり教わることで、新しい表現の仕方であったり自分に合う作曲家に出会えたりするんだよね。 >表現というのは、曲の弾き方みたいなものですか? うーん、そうだね。同じ曲でも人それぞれ、色んな解釈があるんだよね。例えば、ショパンのポロネーズという曲一つだとしても、何人ものピアニストが解釈したものがあるの。楽譜の中にある音楽記号一つとっても、解釈次第で、どの程度の強さで弾くかも変わってくる。楽譜からその曲に対して自分なりに考えて、解釈した情景であったり、雰囲気。その表現したいものを目指しながら、演奏するって感じ。 >ピアノのどういったところに惹かれるのでしょうか? 一つはちょっと疲れてる時とか、休憩したいなーっていつ気分の時に、少しの間でもピアノに没頭し、音にまみれられることかな。そうすると少し気分が和らぐんだよね。一種のリラクゼーションみたいなもの。あとは、さっき言ったように曲に対して目指していたような表現を演奏できた時はとても嬉しいね。

事故の前に乗っていたバイクの思い出写真
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事故の前に乗っていたバイクの思い出写真

この写真かな。この写真は高校生の時に、友人達と一緒にバイクに乗っていた頃の写真だね。18歳を過ぎた後には、車にも乗っていた。俺は手先が器用だから、よくバイクや車の改造なんかもしていたね。だけど、50歳をすぎた時に、アルコール性てんかんを発症した。それから発作で足が不自由になり、バイクや車には乗れなくなったんだ。 >ご友人とどのようなところに行かれたのですか? 松江に住んでいたから、大山とかにはよく行ったね。他にも山陰にはよくバイクや車でツーリングがてら旅行もしたね。何よりもみんなで一緒に走っている時間が好きだったな。 >今でも当時の友人の方とは連絡をとられているのですか? 今でもずっと連絡をとっているね。親友が海士町に遊びに来てくれて、一緒に遊んだりもしたね。ちょうど今度、メガネを買いに行く時に松江に行く用事があるって親友に伝えたんだ。そしたら「せっかくだから、家に泊まっていけ」と言われて、遊びに行くことになったね。今でもずっと友人達と良い関係であるのは、本当に嬉しい。 >バイクに乗られなくなった今も、手先を使って何かいじるような趣味はありますか? 少し前までは、プラモデルなんかを作るのも好きだったね。だけど今は手先を使うようなことはしておらず、穏やかに生活しているよ。病気も段々と回復してるから、治ったらまた仲間と一緒にバイクに乗りたいな。

ハワイで買ったお面
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ハワイで買ったお面

この木彫りの面かな。僕は、元々自動車会社の営業に勤めていたんだ。数年間勤めるとアメリカへ研修旅行があったんだよね。それで行ったアメリカが人生で初めての海外だった。研修旅行だったから自動車の販売店などにも行ったよ。アメリカからの復路として、数日ハワイに寄った。その時に自分へのお土産として、このお面を買ったんだ。 >営業のお仕事は、どういうきっかけで始められたんですか? 最初はいすゞ自動車の工場勤務していたんだ。それから少し経った後に、社内で営業職の募集があって、応募したんだよね。その少し前に、可哀想なことに社内でエアコンガスのネズミ講に騙されている人がいたんだよ。僕も引っ込み思案で、話すのが得意ではなかったから、そういう詐欺に騙されてしまうかもしれないと思った。だから話す力をつけるためにも営業を始めたんだよね。それから9年ほど勤めたね。 >なぜ営業職を辞められたのですか? 会社にもよるだろうけど、営業ってすごくハードだったんだよね。自炊もせずに、外食、不規則な生活をしていたせいで、体の調子が悪くなってしまったんだ。調子が悪くなってから、何よりも健康第一だなと思った。そんな時に以前、営業のお客様から「仕事を変えるなら30歳前まで」と言われたことも思い出し、海士町に戻ろうと思ったんだ。でも海士町で仕事がないと戻るわけにも行かないから、探していたところ小学生の通学バスの運転手を募集していたんだ。 >運転手としてのやりがいは、どんなことがありますか? 本当に、子供たちの成長が見れたのは嬉しかったね。出勤の数は減らしたけど、今でもバスの運転手を続けているんだよね。だから小学生の頃にバスに乗せていた子が、Uターンで帰ってきてくれた時は本当に嬉しいね。

恩師からもらったラジカセ
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恩師からもらったラジカセ

このラジカセだね。僕には手に入れたら死んでもいいと思っていた物が3つあったんだ。その中の一つがスピーカーが分離できるラジカセでした。初めて見たのは、小学校の斉藤先生という方が自宅に招待してくださった時。その時から、ずっと心の底から欲しいと思っていたんだけど、小学生の僕には高価で手に入らなかった。それからスピーカーが欲しいと思いながら10年ほど経った時に、斉藤先生が島前に帰省しているためまた自宅に招待し、ずっと欲しかったラジカセを譲ってくださったんだよね。 >そこまでして手に入れたい物を手に入れた今、欲しいものってなんですか? なんか、最近は物よりも仲間を大切にするっていうことの方が大事だと思うようになってきたんだ。漫才を見るより、仲間と一緒にバカみたいな話をする方が何倍も楽しいと、ここ数年で思うようになったね。なんか、小学校時代の友達を大切にするということが蘇ったような感じ。 >仲間を大切にする時に、具体的に意識していることはありますか? 僕も凄いことはわかんないけど、意識しているのは小さなことの積み重ねかな。例えば、お世話になったと思ったり・ふとした時にジュースを奢ったり、何か悪いことをしてしまったらすぐに謝る。恩を返すってことかな。   >仲間、特にさくらの家は面谷さんにとってどんな存在ですか? 職員の方もみんな、学校の頃の同級生のような存在だね。みんな本当に優しいし、例えば本多さん(施設長)が正月には料理を持ってきてくれたりする。さくらの家の方は理解してくれているけど、僕が意識していて、みんなに知っておいて欲しいことがある。僕たちのような障害がある人も健常者もみんな意見を持っている。だから簡単にそのプライドを傷つけないようにしたい。

兼業百姓のお米
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兼業百姓のお米

この僕がつくったお米だね。僕は元々、本気米の販売担当として農家の方に会う機会が多かったんだよね。その頃から、お米づくりはもっとたくさんの人がやれるようにしていかないと続かないと考えていた。そこで金銭的にも、兼業で米づくりをしたくなるような実例を作りたかったんだ。そんな時に、田んぼの面積を減らす農家さんが田んぼをやってみないかとお誘いをいただいて、それから自分でお米づくりを始めた。 >思い入れが特に強くなった瞬間はどんな時ですか? 僕のお米は、自分の知っている人に直接買ってもらっているんだ。米づくりを始めた最初の頃は、無農薬で始めたんだ。だけど、通常より6倍作業量が増え、値段もほぼ変わらない。数年間は買ってくれるお客さんのためにも続けていたが、どうしても難しかった。その時に、電話で直接「この時期の除草剤は残留農薬にならないです」などと、きちんと説明したら全員が納得してくれたりもした。また「おいしかったよ」などというお米に対する直接のフィードバックをもらうことができる。このような状態が続いていくことで段々と、思い入れが強くなっていったね。 >兼業でお米づくりをするっていうのはどのようなイメージですか? お米づくりのみなら、ある程度他の仕事をする時間は十分にあるね。実際に僕もできているし、成り立つモデルだと思う。あと、人間ってずっと百姓の文化だったんだよ。百姓ってのは100の生業を持つ人たちっていう意味なんだ。少しずつ変わりつつはあるが、なぜか多くの人が一生を1つの会社に捧げる。だけどこれは歴史上で見れば、とっても異常。だから、僕は兼業が普通になる世界に戻すような手伝いをしたいんだ。 >兼業が普通の世界に戻ったら、どのような変化が起こると思いますか? もし1つの仕事しかしていなくて、その仕事にやりがいを感じることができなかったら辛いと思う。だけど何個も仕事をしている内の1つがダメでも、他の仕事からやりがいを感じることができたら、そこまで辛くはないだろう。それは幸福度が上がる1つの要因になると思う。また、やりがいを感じて自分は社会の役に立っていると思うことで、自殺する人が減ったらと思っている。

初めて買った本格的な銛
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初めて買った本格的な銛

この銛だね。僕は青森県出身で小さい頃から自然で遊ぶのが好きで、「黄金伝説」という番組(濱口優が魚を獲る番組)も見ていたからずっと魚突きには興味があったんだ。そんな中学1年生の夏に、先輩に誘われて初めて魚突きをしたんだよ。銛を手にして海に潜り、自分で魚を獲るという体験が衝撃的で「こんな楽しいことがあるのか」と感じた。それからもう10年以上魚突きをやり続けていて、そんな時に買った初めてのちゃんとした銛だね。 >魚突きをしていて一番楽しい瞬間はどんな時ですか? 海は陸上と違い「相手のフィールド」であり、潜って魚を見つけ、自力で命をいただく行為が“生きている”という感覚につながっているんだよね。特に岩陰などに潜む大きな魚を探し出す「探している時間」が一番ワクワクするんだ。なんか、ボスキャラに出会ったような興奮や非日常を感じられるんだよね。あとは同じ場所でも毎回状況が異なっているのも面白いんだよ。 >凄く大きい魚を獲られている写真を拝見しましたが、やはり大きい魚を獲るのは大変ですよね。 本当に大変だね。だけど僕は魚突きをする時には、絶対に無差別に命を奪わないようにしているんだ。基本的には必ず獲れると思った魚しか突いていない。もし1度突いたのに逃げられてしまった時は、絶対に獲れるまで追いかけている。一度突かれた魚は大体死んでしまうからね。瀬戸内海で魚突きをした時には1度突いたのに、逃げられてしまって血だらけになりながらも、最後まで追いかけて獲ったね。 >少し怖いですが、僕自身もめちゃくちゃ興味が湧いてきて、挑戦してみたくなりました。 ぜひ本当にやってみてほしい。もう少し年齢が低い子供に対しては今の時代、魚突きは危ないから「やめておきなさい」という親御さんも多い。だけど、こんなに楽しい魚突きをできないのは勿体無い。他にも公園で騒いでいたら通報されて怒られるなんてこともある。だから僕は将来は出身の青森で、子供達と一緒にそういう好きなことを好きなだけできる場所を作りたいんだよね。

喧嘩をしながらも持ち続けた兄弟お揃いのぬいぐるみ
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喧嘩をしながらも持ち続けた兄弟お揃いのぬいぐるみ

このハムスターのぬいぐるみですね。幼少期の頃、家族で旅行した際に兄弟揃って買ってもらったものなんですよ。実家は石川県にある代々続くお寺なんですけど、訳あって通信高校に通いながら、京都に働きに出たんです。それから3年くらい経ってから実家に帰った時に、まだ捨てられていないこのぬいぐるみを見つけたんですよ。子供の頃は喧嘩ばかりで当時も仲がいいとは決して言えなかったので、幼少期の仲の良かった頃を思い出し、懐かしく実家から持ってきたんです。 >今は漁業(定置網)従事されていますが、お寺を継ぐという選択肢はありましたか? 僕は長男として生まれたから、正直なところお寺を継ぐという選択肢しかなかったんですよ。京都に出た時も最初は、大谷大学(仏系)に進学して、お寺を継ぐ予定でしたからね。だけど、働いているうちにたくさんの良い出会いがあり意識が変わって、「自分の人生は自分で歩みたい」と思うようになったんです。それで凄く怒られたけれど、お寺を継がないという選択をしたんですよ。 >具体的に印象に残っている方はいますか? 在日朝鮮人のショウテツさんですね。本当に優しい方で、一生懸命に仕事をし、歩んできた人生も印象深い方でした。当時、僕は高校生ということもあり一生懸命に仕事をすることがかっこいいとは思っていませんでしたが、ショウテツさんに出会ってから一生懸命に仕事をするかっこよさを学びましたね。彼がいなければ今ほど、仕事に対して考え、試行錯誤することはなかったのではないかと思います。 >定置網で、具体的に考えられたことや試行錯誤されたことがあれば教えてください。 数年前まで、海士町の定置網は年間数千万もの赤字だったんですよ。それを改善するために、組織のマネジメントや経費の削減、新しい漁法の提案などを行ったんです。新しい漁法では追加で網を購入する必要があったため、論文を漁り資料を作るなんてこともしました。

教育・地域を回る旅で見つけた島
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教育・地域を回る旅で見つけた島

この原付だね。これは海士町に通う様になって、少し経った後に買ったものなんだよね。海士町に来はじめた頃は毎回、島の方が車で送ってくださっていた。だけど、僕は海士町に”学びに来させてもらっている側”という意識が強くて、島の人に時間を割いていただいていたことに、負い目を感じていたのが一つのきっかけだね。というのも、僕がリクルートを退職して全国の教育・地域の現場を巡る旅の中で、見つけた場所が海士町だからね。 >どのような経緯で旅に出られたのですか? リクルートキャリアで学生に関わって仕事をしていく中で、1民間企業の中では変えられなかった自分に残された宿題があった。それは”地域から若者が消えていく構造を止めること”、”公教育の中で生きる力を育てる”ということ。この2つのテーマを解決する方法を学ぶことを目的として旅に出たんだ。 >公教育で生きる力ということについて具体的にお聞きしたいです。 僕はキャリアの仕事に関わっていたから、親や先生に期待に応えて有名大学に入学しても人前で”思いを語ること”ができずに就活に失敗し、うつ病になってしまったような本当の悲しい社会の現実というのを見てきた。だから僕は誰でも学ぶことができる公教育で、人前で思いを語ることや人に愛される力、一歩踏み出す力を育てなければいけないと考えた。 >社会を変えたいなどという思いの原動力にはどんなことがあるのですか? 僕は元々社会を変えたいなんていう思いはなく、若い頃は人に褒められたいなどという感情から、自分のために仕事をしていた。だけど、自分のためだけに頑張っている人というのは周りにわかるんだよね。30歳の時に部下から「水谷さんは周りのことを考えていない。そんな人が上司であった欲しくない」と言われて9ヶ月間、うつ病になった。その時に人に褒められたいとか自分がイケてるなどというチンケなこだわりはただ孤独になっていくと思った。その時にカッコつけない”素でいきよう思った。それからは、人に評価されなくても素で、自分らしく生きている実感がちょっと持てるようになった。背伸びせずに、気張らずに社会に一石投じることができたらと思っているかな。

亡き親友からもらったバット
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亡き親友からもらったバット

このバットですね。これは元日本ハムの選手である川村選手が現役時代に使っていたバットで、彼は高校時代の野球部のチームメイト。少学校時代から噂は聞いていたけれど、高校でも頭一つ抜けたような選手だった。彼とは家までの帰り道が同じで話すようになり、仲良くなったんだよね。高校は甲子園常連校ということもあり、僕はレギュラーにはなれず。そんな時、川村君が「お前のグローブを貸してくれ。ずっとお前と一緒に頑張ってきたんだから、甲子園で使うから」と言って、僕のグローブをはめて甲子園に出てくれ、ファインプレーも(笑)。それからこのバットをもらったんだ。でも彼は7年前に朝に突然倒れ、帰らぬ人になってしまった。 >渡邊さんにとって川村さんはどのような存在でしたか? 彼はずっと親友のような存在だったね。どんなことがあっても、味方でいてくれていたから、彼といると安心できたね。だから、僕も”安心感を与えられるような存在”になれたらいいなとも思っていた。海士町に移住する時に、茅ヶ崎の持ち家には、彼のこのバットをあえて置いてきた、この家を見守ってほしくて。川村君が生きたかった今日を大切に生きなきゃと感じています。彼に恥ずかしくない生き方を。川村君がオレには唯一無二の親友だったからね。それは今も変わらない。

亡き夫が受け取るはずだった感謝状
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亡き夫が受け取るはずだった感謝状

この感謝状だね。この感謝状は、7年前の海士町50周年記念式典で、水産業の発展に貢献したとして主人に向けて、町からいただいたものなんだよ。でも主人は式典の前に海の事故で亡くなってしまって、代わりに私が受け取ったものなのよ。 >ご主人はどんな水産業の中でもどんなお仕事をされていたんですか? 水産関係の仕事はたくさんやったね。海苔・魚・牡蠣の養殖やサザエ漁、イカ釣りを主人が1人でやっていた。網漁には私も一緒について行ったりしたね。主人が釣ってきたイカや魚は私が全部、処理していたよ。 >やはりたくさんのお仕事をされていたので、忙しい生活でしたか? 本当に、イカの中で寝るほどだったね。釣ってきたイカを処理していたら、日が暮れてしまい寝て起きたら、また作業をするような生活だったね。私たちは、”働く時は死ぬ気で働いて、遊ぶ時は遊ぶ”。日本中色々なところに遊びに行ったね。それこそ北海道や九州、四国とかに美味しい物食べに行ったり、景色を見に行ったね。 >どんなご主人だったのですか? すごく仕事熱心で優しく、怒らない人だったね。趣味が仕事のようだった。あと、人と話したり関わることが好きで、色々な人と仲良くしていたよ。

結婚式のウエディングボードで使ったサーフボート
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結婚式のウエディングボードで使ったサーフボート

このサーフボードだよ。これは昔、友達からもらって俺の結婚式の時にウエディングボードとして使ったものなんだ。こうやって結婚式とか家に来てくれた人に名前を書いてもらってるんだよね。 >サーフィンはいつ頃から始められたのですか? 幼少期から興味はあったね。だけど始めたのは、専門学校を卒業して松江で土建屋をしている時に、友達に勧められたのが始まりだね。そこから2年くらい勤めて、横浜に移動して独立して基礎関係の会社を始めた。その時に出会ったのが妻なんだよね。2人ともサーフィンが好きだったから一緒にサーフィンをしたのが始まりだね。 >サーフィンは難しいイメージがあるのですが、すぐ慣れましたか? もちろん最初は全くできなかったよ。でも、俺は高校でレスリングやってたから、レスの”なにくそ精神”(何度できなくても、なにくそと思い諦めずやる精神)で何度もやって、段々できるようになっていったな。俺は松江では土木、横浜では基礎、海士町では大工と建築関係でとはいえど、毎回やったことない仕事をしているんだよな。だから、毎回知らないことも多いけど、この精神でやっている。 >他にもレスリングから学んだ精神はありますか? うーん。適当にやっていたら、自分に返ってくるってことかな。普段の練習で「このくらいでいいか」と手を抜いていたら試合でいい結果が出ない。これはどんな小さなことでも言える、例えばあそこにある(インタビューは星さんの家にお邪魔している)階段だってそうだよ。もし、俺がこの階段をが作る時に、ここでいいか(階段の設置場所)と手を抜いて適当に設置したら、使いずらい場所に階段があって、これから生活をするのに困っていたかもしれないしね。

亡き夫や友達との宝物のアルバム
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亡き夫や友達との宝物のアルバム

このアルバムですね。子供が小さい時に主人がカメラを買ってきたんだよ。それで、私が時々カメラを借りて子供の写真を撮り始めて、アルバムにし始めたんだよね。 >このアルバムは中野さんにとってどんなものですか? 私の思い出の物は子供たちや主人、友達との記憶が形として残っているこのアルバムなの。だから私の宝物は、このアルバムに入っている人たち。このアルバムを見ると、この人たちと一緒に色々な場所に行ったり、遊んだ記憶が蘇るものなんだよね。 >本当に、ご主人やご友人と色々なところに行かれていますね。 若い頃は本当に、みんなで色んな場所に行ったね。松江にもよく行ったし、西ノ島のバラを見に行ったりして、遊びに行くことも多かったね。今は昔みたいに、色んな場所に行ったりすることはできないけど、家でカラオケとかをしているよ。いつできなくなるか分からないから、”できる時にできる範囲のことをして”楽しんでいるね。 >写真の中で特に思い入れの強いものはどれですか? この主人の写真(スーツを着た姿)かな。この写真はスーツをいただいて記念に撮ったもので、遺影にもしたものなんだよ。やっぱりこの写真を見たり、アルバムを見ると楽しかった記憶を思い出して、慰めになるね。

140年前の金庫
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140年前の金庫

思い出の物というと、この金庫くらいかな。私の祖父がアメリカの海軍に勤めていたんだよね。だからアメリカから色々な装飾品を海士町に持って帰ってきた。だけど戦時中に供出(贅沢品などを国に渡すこと)し、あまり物は残ってないんだよね。だけどこの金庫は何故か、残っていて今でも使っているよ。(1885年製) >渡辺さんご自身、戦争当時は小学生くらいでしたか? ちょうど、小学校卒業した翌年くらいに終戦だったかな。戦争が終わって、高等小学校(小学校に付属していた中学校のような場所)から新生中学校というのに転校したんだよね。僕は中学校までしか行ってないし、そんなに勉強したわけでもないけど転校してから教わることは少し変わったりしたね。新しく社会科や英語を習った。他にも教育勅語や修身などは無くなったね、 >他にも戦時中で今とは違うことはありますか? 海士町は自給自足をしてる人も多いから比較的に食料もあって、ひもじい思いをすることはあまりなかったね。でも、麦の中に白米を少し入れて麦飯を食べていたりはしたね。他には、戦時中だから私の従兄弟も兵役の召集されて赤手紙が届くなんてこともあったな。召集で海士町から出る時は、みんなで日章旗を振りながら船を見送った。 >中学校卒業後はお仕事に就かれたのですか? 戦後で戦時中より食料に困ったということと、10人兄弟の長男だったから家族を支えるためにすぐ仕事をしたね。中学生の頃から父から牛の扱い方や農業について教わっていたから、そこまで難しいものじゃなかったよ。他にも毎年11 月から3月ごろまでは定置網で船長として働いていた。

子供の頃を思い出すアワビ取り
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子供の頃を思い出すアワビ取り

僕の思い出の物はこのアワビ取りです。もちろんずっと前からこれしか使ってないわけじゃなくて、古くなって買い替えているよ。でもこれを見ると小学生の時、夏休みに子供たちだけで風呂屋海岸(海士町の日須賀地区)でサザエやアワビを取っているのを思い出すね。 >小学生達だけで海に潜られていたのですか? 今とは違って、親がついて行くなんてことはなかったな。家からお米とかマッチとかを持ってきて、取ったサザエとかを入れてみんなでお昼ご飯を食べたね、でもやっぱり小学生達だけで海にいくから、泳ぎが上手ではない子が溺れてしまったりして、上級生が助けたりすることもあったね。そういった色んなことを経験していく中で一体感を感じ、共同することの大切さとかを学んでいったね。 >具体的に一体感が大切だったエピソードなどはありますか? ほぼ全部のことで一体感を感じて共同することが大切だね。その中でも今から36年前に始まった綱引き大会が一番、大切さを感じたかな。元々は福山さんという1人の方のアイディアから始まったものなんだよね。そこから色んなところ(海士町の建設会社、商工会など)に綱引き大会をやりたいという気持ちを話して、賛同を得た。そうやって、みんなで”一体”になって進めて行ったことで36年も続き、熱い戦いが繰り広げられる大会になったんだよ。

震災時の目覚まし時計
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震災時の目覚まし時計

この目覚まし時計で、元々は結婚時に職場の方々から頂いたものなの。私は海士町にきて16年目になるんだけど、その前は神戸市の有馬に住んでいたんだよね。だから阪神淡路大震災も経験していて、その時もこの目覚まし時計を使っていたんだよ。その時の衝撃で電池が外れ、ずっとこの時間(5時52分。地震発生から約6分後)で止まっている。 >震災時から電池を入れられてないとのことですが、電池を入れようと思ったことはありますか? 1度も思わなかったね。でも、震災当時はこの地震を忘れないようにこのままにしておこうなんていう想いじゃなくて、「なんかこのままにしとこ」みたいに自然にそのままにしていたんだよね。最近では1月になると、震災を忘れないために、わざと見える場所に置いたりしているよ。 >この時計を見ると、どんなことが思い出されますか? 私は被害が少ない地域だったから、大規模な被害を受けた人が聞いたら怒られるかもしれないけど、圧倒的な恐怖だね。当時は3歳と5歳の子供とアパートに住んだいたんだけど、凄い揺れで子供達を必死に守ったのが思い出すね。揺れが収まった後に外にでてみたら、アパートの基礎が地面と何十センチもずれていたよ。他にも、公衆電話に長蛇の列ができていたり、被害が大きい地域に住んでいた友人と1ヶ月くらい連絡が取れなかったね。連絡が取れるまでは、毎日いないと祈りながらニュースで流れてくる、死亡者一覧を見ていた。 >震災からどんなことを学ばれましたか? 自然の中で生かされているという自覚かな。山も海も本気になればいつでも命を奪えるということを忘れてはいけないし、自然に対して傲慢にならず無理な開発・破壊はしてはいけないと思うようになったね。それもあるけど海士町に来てからは、震災という災害を経験したということや広島が近いこともあり人の手による災害(人災)に関心が向くようになった。

母から受け継いだ商店
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母から受け継いだ商店

あんまり小物で思い出の物という物も無くて、母から受け継いだこの商店を選んだよ。この商店は70年前に母が始めて、約30年前にだんだんと私たちが受け継いでいったんだよ。小さい頃から手伝いもしていたけど、母が1人で大きなかごを背負って港から商品を運ぶのを見ていたからね。 >港から商品を運ばれていたんですか? 昔は隠岐汽船なんてなくて、隠岐丸という貨物船のような船が1日2便動いていたの。隠岐丸は港には停泊せずに港から少し離れた場所に停泊していたから、そこまで手漕ぎ船で行って荷物を受け取って商店に運んでいたそうだよ。本土に行く時にも隠岐丸で行くんだけど、船員さんが1人でお客さんを何人も乗せた手漕ぎ船を漕いで船まで行ったね。船の近くについたら梯子を登って、船に乗っていたんだよ。梯子を登っている時に落ちる人もいるくらい危なかったね。 >お客さんを何人も乗せた重い船を、船員さんが1人で漕ぐなんて凄いですね。 でも昔の人はそれくらい普通だったね。私が小学生の時には、夏休みになると子ども達だけで手漕ぎ船を漕いで遊びに行ったね。今じゃできないけど、サザエを取ったりしてみんなで食べたね。昔は全部遊ぶのにも自分達で作ったから、冬には竹でソリを作って山道を滑ったり、釣り竿を作って釣りをしていたね。 >自分たちで工夫して、楽しく遊ばれていたんですね。 今は便利な世の中になって、今の子達は自分達で何か作って遊ぶことは少ないもんね。でもたまには、昔の人のように自分達で作って遊ぶのも楽しいかもしれないよ。

母からの手紙
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母からの手紙

思い出の物は母が書いた手紙だよ。この手紙は私宛のものじゃなくて、妹の旦那宛の手紙なの。だけど母の筆跡が欲しくて残して貰ったのよ。 >どんなお母様だったのですか? 母は明治の生まれだということもあって、今の小学校4年生程度の教育しか受けてなかったから手紙もほぼ平仮名なんだよね。6人も兄弟がいて生活も相当厳しかったと思う。だけどそんな素振りも見せなかったな。今になって思うと、ほんとに凄い人だよ。あとは母が「人に迷惑をかけるな」、「人の悪口を言うな」とずっと口酸っぱく言われて育ったよ。 >素敵なお母様ですね。やはり6人兄弟で生活が厳しい部分もあったのですね。 私は今でいう中学校を卒業してから、松江の2年制の学校に行ってたの。その後に海士町に帰ってきて、漁港の事務の仕事をいただいて1年間働いていた。その時に人生で初めて給料を貰ったんだけど、そのお金は母に渡したの。そしたら母が「これでお父さんも喜ぶよ」と言ってくれたのが嬉しくて今でも忘れられない。 >その後、商店をやられたとのことですが大変だったこともありましたか? 商店を始めたのは嫁いでからなの。だからそれまで商売の経験がなかったけど、舅・姑とか、周囲の人やお客さんに支えてもらったからやってこれたよ。

初任給で買った腕時計
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初任給で買った腕時計

この腕時計です。これは私が2013年に静岡で教員をしていた時の初任給で買った時計で、ちゃんとした物を買ったから今でもずっと使っているよ。秒針が小さな飛行機になっていて、可愛いんだよね。 >初任給で買ったものは思い出に残りそうですね。どのような流れで海士町に来られたか教えていただけますか? 元々は2013年から4年間、静岡で教員をしていたんだ。学校教育に色々と疑問が出てきた頃に、ちょうど友人が海士町の学習センター(公立の塾)で働いていて、Facebookでそのことについて呟いてて。それを見て面白そうだなと感じて、島の教育会議(島内外から人が集まり、教育について語るイベント)に参加したんだよね。その時にコーディネーター(地域と学校をつなぐ役割)という存在を知って、島の人たちの本気度に魅かれて、翌年からコーディネーターとして島前高校で働き始めた。 その後は教育系の企業でリモートワークをしたり、益田市や島後で働いたりと、やりたいことや縁に沿って色々な職や働き方をしているよ。 >主に高校の教育に携わられていると思うのですが、どういった思いがあるからなのでしょうか? 人の想いに触れるのが好きというのもあるんだけど、社会に出る前の最後の場所にもなりうる高校で、みんなで意見を交わしたり、自分の考えや価値観に影響を受け合ったり、向き合える何かや向き合ってくれる人と出会えることが大事だと思っているからかな。例えば国語の物語一つとっても、感じることは一人ひとり違う。それを交わすことでいろんな意見や感じ方があることに気づいて、自分の考えに影響を及ぼす可能性もあるし。 >曽根さんの思う理想の教育の形というのはどのようなものなのでしょうか? 島前高校で実践して、きっと今も目指されているような“開かれた学校”かな。さっきも話したけど、色々な人やもの・ことと出会って、影響を受けながら人は育つと思っているから。その場が学校である必要はないかもしれないけど、多くの人やもの・ことに出会って学んで育つ環境が、誰しもにあるといいなと思うよ。

オーストラリアで使ったナルトのコスプレ
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オーストラリアで使ったナルトのコスプレ

このナルトのコスプレセットで、これはオーストラリアでワーホリに行っていた時に書道ストリートパフォーマンスをする時に着ていたものです。ワーホリをしている間、計30回くらいしてたんですが、名前を当て字で漢字にしてました。途中まではナルトのはちまきと服だけだったですが、一緒に撮ってもらった写真を見ると手抜き感が見え見えだったので、クオリティを上げたくてこの金髪ウィッグも現地で後からで買いました。 >ストリートパフォーマンスを始めたきっかけはなんですか? 小学生の時に見た「書道で海外パフォーマンスする素人」のTV番組がずっと記憶に残っていて、これなら自分もできるやん!いつかやってみたいなと思ってました。そんな中でワーホリの情報収集をしていたら、オーストラリアでの仕事紹介で書道のストリートパフォーマンスが紹介されていて、これやりたい!とピンと来ましたね。でも初めてパフォーマンスをした時はなかなか勇気が出ず、1〜2時間ずっと右往左往してました。だけど自分は風景の一部だし、ナルトのコスプレをした変な人がいたというのは1分後誰も覚えてないよな!と思って、勇気を出して座りました。そこから1時間くらいしたら初めてのお客さんが来てくれて、その時は本当に嬉しかったですね。そこから学んだのは、ほとんどの人は自分のことで精一杯で他人に関心は持ってないし、人の目を気にしすぎず、一歩踏み出すことが大事。とにかく行動することが大切なことを学びました。 >パフォーマンスをしていく中で、1番印象に残っているお客さんはどなたですか? 特に印象に残っているのは8歳くらいの女の子です。その子の名前を当て字で書いたら5ドルもチップをくれたんですよね。8歳からしたら5ドルなんてとても大金で、お菓子だってたくさん買えるし、遊びにも使える。けどこの子は書道というアートに5ドルを払ってくれたんだなと感じました。この年齢でアートにお金を払う感覚が素晴らしいなと思ったし、そこから本当に日本文化、漢字のポテンシャルすごいなと思いました。日本の100均で仕入れた1枚1円の半紙に名前を日本語で書くだけで、500円、1000円、2000円と変わる体験は強烈でした。(料金はup to youと言ってお客さんに決めてもらってました)。今後は大好きな海士を拠点にしながら、20代の間は世界中をパフォーマンスしながら旅をしたいなと思ってます。

缶バッチ5つの携帯できる記憶
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缶バッチ5つの携帯できる記憶

このショルダーバッグにつけた缶バッジたちで、全部で5つあります。1つはSpitzのコラボの缶バジ、2つ目は隠岐の島ウルトラマラソンの缶バッジ、3つ目もSpitzが出ていたフェスで買ったもの、4つ目が東京でやっていたハニワ展で買ったもので、5つ目も別の展覧会で買った土器の缶バッジだよ。何かイベントとかに行った時に可愛い缶バッジがあれば買っているよ。 >笹原さんがこのショルダーバッグに缶バッジをつけ始めたきっかけを教えてください。 最近は物欲も薄れてきて、あんまり物を増やしたくないけど楽しかった記憶を物で残したい気持ちもあった。だからどこにでも持っていけて実用的で会話のネタにもなる缶バッジをつけ始めたね。缶バッジを見ていると一目で「あ!あの時の!」と思い出すような“携帯できる記憶媒体”みたいな感じ。 >この中で特に思い入れのある物はどれですか? 2つ目の隠岐の島ウルトラマラソンの缶バッジな。初めてのウルトラマラソンで距離的にはフルマラソンの2倍以上で完走できるか不安だったんだけど、応援のおかげでどうにか完走できた時に買ったものだからね。でも本当に、隠岐の応援はすごかったな。マラソン前に各家庭に選手名簿とゼッケン番号とかが配られるらしく、面識がない方にも名前で呼ばれて応援してもらって本当にエネルギーをもらった。 >マラソンで学んだことはどんなことがありますか?例えば仕事などで。 当たり前だけど、マラソンって進まないとゴールできない。仕事でもアクシデントとか作業量が膨大にあっても、同じようにやらなければ終わらないから、さらに頑張ろうと思えるようになったことかな。あとは辛いことがあっても「こんなのフルマラソンと比べれば大したことない」と思えるようになったね。

大親友のビュート
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大親友のビュート

私は物に執着が全くないのだけど、これは唯一執着のある物で、ビュートという車だよ。私は32歳の時に離婚したんだけど、この車との出会いはその直後だったんだよ。たまたま見かけて一目惚れして調べてみたんだけど、なかなかいい値段がした。だけど、元旦那に罵倒されて悔しい思いをしたというのもあったんだけど、「これから自分の人生を自分の足で歩こう」と思った。だから、自分の好きなものくらい手に入れようと思って、無理をして買ったものなんだよね。それからもう20年以上乗っている。 >輝美さんにとってこの車はどんな存在なのですか? “唯一の泣ける場所”だったよ。仕事から家に帰っても、まだ小さい娘がいたから泣くわけにもいかなくて。一人で、本当に数え切れないほどの涙を流した。娘が思春期の時なんかは、普段話せないことも車の中だと話せたんだよね。お互いに考えや感情を話して、涙を流したり、たまには怒ったりなんてこともあった。もう20年以上乗ってるから、いろんな人との思い出があるし、もう相棒で、大親友みたいな感じだね。 >先ほど物に執着はないと仰っていたと思うのですが、リラクゼーション施設をやられている中で、感情として「この感情だけは失いたくない(執着している)」といったものはありますか? なんか薄っぺらく聞こえるかもしれないけど、“大きな意味での愛”だね。 >大きな意味ですか? うん。ただ、優しさや受け入れることだけが愛じゃない。ときに突っぱねたり、厳しくすることも愛。私は、できているかは別にしても、全ての行動を“愛から起こしたい”と思っている。

13年以上の料理人として人生を共にしている和包丁
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13年以上の料理人として人生を共にしている和包丁

この3本の和包丁です。専門学校に入った時からずっと使っていて、もう13年以上使い続けていて、研いできたらだいぶ削れてきて小さくなってしまったけれど、今も毎日使っています。 >研ぎ続けるとここまで小さくなるのですね。包丁は毎日研ぐのですか? うん、大体毎日研いでるね。私は海士町に来る前に和食料理屋で働いていたことがあるんだけど、毎日営業終了後に三人分の包丁を研いでいたのが始まりだね。その時に「包丁は何があっても毎日研ぎなさい」って言われていて、それを今でも時間を見つけて研いでいるね。研がないとなんか仕事も「これくらいでいいか」みたいに満足しちゃうんだよね。あと、特に忙しい時ほど、包丁を研いだりしてるんだよね。 >忙しい時ほど、包丁を研ぐんですね。なぜ忙しい時こそなのですか? 包丁を研いでいる時って、無心になれるんだよ。精神統一の一種みたいな感じだね。研いだ後は、目の前のタスクを思い出して優先順位をつけたりするから“アクセルを踏む”みたいな感じだね。 >包丁を研いでる時に料理のアイディアなども生まれたりするのですか? ううん、研いでる時ではないね。アイディアは結構締め切りギリギリだったり、追い込まれた時に思いつくことが多いかな。あとは自然を見ていてその景色(山、海)の色をなんの食材で再現できるか考えたり、季節感や香りのイメージをもとに料理を作ることもあるね。

隠岐神社の未来設計図
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隠岐神社の未来設計図

この2枚の絵です。この絵は隠岐桜風舎に勤めている伊藤茜さんが、10年前に初めて隠岐神社に来た時の印象を描いたものです。白黒に見えた理由は、歴史的な背景がわからなかったり、人が少なくて寂しく見えたためだそうです。もう一つの色がついた絵は、その伊藤さんが考える隠岐神社周辺の理想の形だったそうです。 >そうなんですね。もし、今の隠岐神社と色がついた絵にギャップがあるなら、それを埋めるためにやりたいことってなんですか? 僕は隠岐神社の神主であると同時に、観光協会の会長でもあるから、観光という視点で僕が大切にしたいのは、「観光客のためだけの場所」じゃなくて、地元の人の日常にある場所にすることです。観光施設って、どうしても“来た人向け”になりがちだけど、地域の人が日常的に関われる場所じゃないと、続かないと思うんです。それと、イベントの時って、だいたい“いつも同じ人”が手を挙げるじゃないですか。でも、普段目立たない人の中にこそ、すごく面白い発想や力が眠っていると思うんです。そういう人たちにも光が当たるような場をつくりたいですね。 >神社の神主さんとしてはどんな隠岐神社が理想的でしょうか? 神社としてはやっぱり「何かを感じ取れる」空間であってほしい。にぎやかなだけではなくて、静けさや神聖さがちゃんと守られていること。だから、たとえば「夜の隠岐神社参り」というように、日中とは違う時間に、少人数だけでゆっくりお参りしてもらう取り組みもしています。 >そういった空間づくりで意識されていることはありますか? 大げさな説明をしなくても、「さりげないおもてなし」や雰囲気で伝わるようにしたいんです。「ここにはこんな神様が祀られていて…」と解説するのではなくて、小さな仕掛けで伝わるようにしていきたい。

みんなからもらった三味線
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みんなからもらった三味線

この三線だね。俺は海士町に移住する前に、2011年に前職であるKUMONの職員として、沖縄に転勤したんだよね。それから4年ほど勤めて、離島する際にお世話になったKUMONの先生方からいただいたものなんだよ。実は先生方、160人くらいにカンパして買っていただいたものなんだよね。 >160人から買ってもらったなんて、とても嬉しいですよね。これをきっかけに三線を始められたのですか? これがきっかけってわけでないんだけど、沖縄に転勤してきた際、先輩の一人が会社に借りた三線を持ってきたんだよね。そんでちょっと弾いてみたら意外と弾けたというのと音が好きだった。そんな時に公文の新春パーティーの余興を5人みんな(会社に三線を持ってきた先輩を含め)三線でしようということになり、初めて三線を買ったんだよね。 >そうなんですね。沖縄と聞き「なんくるないさ」という言葉が思い浮かびました。沖縄ではその精神を感じましたか? 実はなんくるないさという言葉の前には「まくとぅそーけー」というのがあるんだよね。これはちゃんと誠実にやっていれば、なんとかなるさという意味なんだよね。あと、沖縄の人は楽しそうだなと思ったんだよ。沖縄の人は台風などがきたら、TSUTAYAでDVDを借りたり、カップラーメンを買ったりして、その中でできるだけ楽しもうとしている人が多かった。 >なんくるないさって誠実にいることについての言葉だったんですね。沖縄から離島して少し経った後、海士町に移住されたわけですが、どんなところに魅力を感じたのでしょうか。 そうだね。直感的にすごく大きなエネルギーを感じたのだよね。大好きな島を守るために頑張っている人が多い、文句を言う人が少ないっていうのもあったね。俺が思うに、純粋に人間ていうのは、人のために少しでもプラスになるような行動をすると思うんだよね。それがしている人が多い海士町に住むことで、自分のありのままの姿で居れると考えたからだと思う。 >海士町にはプラスにしようとしてくれる人が多いですよね。僕自身も、そのような人とご縁があり関わらせいただいているのはとても嬉しいです。 ほんとにそうだね。ご縁でいえば俺が以前、福岡でお会いした人から学んだことがあるんだよね。その人がおっしゃてたことで、「目の前のことを面白がって全力で取り組んでいくことで、自分の想像を超える未来が開けるかもしれない」というのがある。俺も目の前の良いことだけでなく、嫌なことも面白がった結果、海士町にたどり着いたんだよ。

体で体感しようとして着始めたゆっけ
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体で体感しようとして着始めたゆっけ

このヤッケだよ。これを着始めるきっかけになったのは、海士町の農作業とかをやられている方がヤッケを着ているのを見てからなんだよね。僕も海士町の人と同じヤッケを着て作業することで、どんな風に感じるか気になったのが始まりだったね。あとは、海士町に来た時には、陶芸家として見せたくないという気持ちもあって、最初の半年くらいはやきものをやってるとは言わなかったなんてこともあったよ。 >島の人たちが着ているヤッケを着て、島の人たちがどんな風に感じていて、見ているのかを体感しようとしていたのですね。 頭ではわかっていても"体で体感すること"が大事だと思ったんだよね。海士町だと、「みんなで一体になり何かをしようとする心・掃除を大切にする・祭り・伝統文化・交流」とかがあるよ。 >そうなんですね。勇木さんは隠岐の土を使いやきものをされていますが、初めてこの土地の土を触れた時にはどのようなことを感じましたか? 初めて触れた時には、とても力を感じたよ。隠岐の土でやきものを作ってみたら、ポロポロと割れてしまったりして、全くうまくいかなかった。その過程で土と対話していくことで2年後にやっと、ひとつのやきものができたんだよ。 >土と対話するというのはどのようなイメージなのですか? そうだね。僕はできる限り土をそのまま形にしようしているんだよね。だけど形にするため(水が漏れない・使う時に凹凸などがなく危険でない等)には、取り除かないといけない部分もあるから、どこを取り除くかを対話しているよ。だから僕のやきものは、自分の意思(使える形にして届ける)と自然の力の半々なんだよ。でもやはり、できる限り自分の意思は少なくしようとしているね。

母から受け継いだフライパン
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母から受け継いだフライパン

この卵焼きフライパンで、これはもう亡くなった私の母が使っていたものなんだよね。それで今は私が息子のために、これで卵焼きを作っているね。 >やはり受け継いだ物っていいですね。このフライパンをみて思い出す情景ってどんな感じですか? うーん。父が小説家で家に出版社の人が毎日のようにきていたから、母が一日中料理していたんだよ。夜ご飯とかも、家族以外の人も一緒に食べることが多かったり、父が食についてのこだわりが強かったんだよね。だから毎晩3時間くらいかけて話しながら食べていて、そんな感じで楽しく食卓を囲っている情景を思い出すね。 >時間をかけてご飯を食べたり、食についてのこだわりが強いご家庭であったのが、今やられている崎カフェなどにも繋がってきたりしているのですか? そうだね。小さい頃から母が料理してる時に、(手伝わせて!)とか言ってたから、その影響も大きいんだろうね。私はプロではないけど、毎回料理を作る時には自分の100%を出して作っているよ! >以前頂いたことがありますが、ほんとに美味しかったです!卵焼きを作る際には、お母さまの味を真似て作られたりするのですか? やってみようと頑張ったことはあるけど、できないね。材料・火加減・やり方とかはわかっているけど、どうしても同じ味にはならないね。たぶん作る時に"その人の生き様"が出ると思うんだよね。だからそれを含めて料理って言うんだと思う。

日々のネジを巻く時計
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日々のネジを巻く時計

この腕時計は50代で亡くなった母型のおじいちゃんの形見なんだよね。おじいちゃんが結婚した頃はお金に苦労して、石鹸一つも買えないほどだったらしいよ。これは始めたアパートの事業がうまくいって初めて買った時計なんだよ。 >悠也さんがそれを受け継いでいるとおじいさまも喜んでますね。どんなおじいさまだったのですか? 僕が生まれる前に亡くなってしまぅたから会えていないんだよね。おばあちゃんが言うには、とても正義感が強いおじいちゃんだったらしい。本当かどうかはわからないけど、横の家が火事だった時に窓から飛び移って助けに行ったなんて話も聞いたよ!おばあちゃんは、(おじいちゃんが生きてたら悠也を一番可愛がってた)なんて言ってたからほんとに会ってみたかったな。 >ほんとにすごいおじいさまですね。そんなおじいさまが着けられてた時計って最高ですね。 ほんとにいい時計だよね。この時計、実はネジ巻き式なんだよね。だから2日に1回くらいネジを巻き直す必要があるんだよね。でもこのネジを巻く作業はほんとに大好きなんだよね。人生の目覚まし時計っていう本から学んだことなんだよ。(写真3にあります。ほんとにいい話なのでぜひ)やっぱり、日々ネジを巻くって良いことで必要なことだな。 >日々のネジを巻く。良い言葉ですね。悠也さんはどのようにしたら日々のネジを巻けると思いますか? 小さい頃からサッカーを習っていたから、日々自分に満足しないということを大事にしていたんだ。だけど、満足と誇りは少し違うと思うようになった。だから僕は満足せずに、誇りを持とうとした。日常をしっかりとこなすこと(家事とか仕事)で日々のネジを巻き、誇りを持てると思った。(写真4)

大好きなくまさん
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大好きなくまさん

このクマさんだよ!このクマさんはママ(亜沙美さん)が高校生の時にもらったやつなんだよ。(亜沙美さんがアメリカに留学しており、その時のバレンタインでホストファミリーからもらった物である) >このクマさんのお洋服可愛いけど、どこかで買った物なんですか? (亜沙美さん)このお洋服は待望の女子(長女であるしおんちゃん)が生まれた時にわたしの高校の同級生から頂いたものなんだよね。でも外国のブランドでサイズが大きく、サイズアウトしてしまって、(この洋服はボタンを留めて着させる物なので、着られるほどに成長した頃には歩ける様になりズボンを履く様になったため)クマに着させたんだよね。 >そういえばゆっちゃんはなんでこのクマさんが好きなの? ママの形見だからだよ!(亜沙美さんはお元気です)ママが大事にちっちゃい時から大事にしていた物だから。 >ちゃんとママが大事にしていたことを理解して、ゆっちゃんも大事にしているんだね。ところで、ゆっちゃんはこのクマさんと、どんなところに遊びに行ったりするの? うーんとね。旅行に行く時とかは他のぬいぐるみも一緒にリュックに入れて持っていくよ!!いっつも1つのリュックじゃ足りないからナップサックにもぬいぐるみを入れて持っていくんだよ。帰りはリュックに入らなくてしおん(長女)のリュックに入れてもらったりもしたんだよ笑!

一度手放したバイク
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一度手放したバイク

(晃さん)このハーレーで、1978年式のハーレーというのがポイントだね。これが沙和(奥さん)の生まれ年と同じなんだよね。 >バイクも拝見しましたが、渋くてめっちゃカッコいいですね。 (晃さん)いいよね。僕が25歳の時に今持っているのと似ている、1978年式のハーレを買ったんだよね。そこから15年くらい乗ったね。そのくらいに起業とかで会社が厳しく、カツカツになって現金化するために、バイクを売ったんだよ。 >一度売られているんですね。今は想像つかないです笑。 (沙和さん)家族で旅行に行った時も饅頭1個しか買えないとかもあった。それはそれで1個をどれにするかを選ぶのが楽しかったね!笑。 (晃さん)それで去年、元の会社のメンバーの方である小久保ちゃんという方の結婚式に行くために洗車に行ったんだよね。そしたらその横にその方と同じ名前のコクボモータースというバイク屋さんがあって、ちょっと覗いてみたら一度売ったバイクととても似ている1978年式のハーレーが置いてあったの。 >すごいですね!もう即決ですか?笑 (沙和さん)そうだね笑。洗車に行っただけなのに(晃さんが1人で)めちゃくちゃウキウキしてて、「どうしたの」って聞いたららもう買うこと決めてたね。もう一度一緒にバイク屋さんに行った時には私も買うしかないと思ったよ笑。 >それは運命感じますね!もしあれば教えて欲しのですが、このバイクだからこそ生み出された繋がりなどはあったりしますか? (晃さん)一期一会のようなものはたくさんあるね。色々なところ周ってても、バイク乗ってる人には共通話題があるから話しかけられるね。 (晃さん)今回とかも西ノ島(海士町の近くの島)を走ってる時に、日本一周をしている21歳のライダーの人と仲良くなって、8月に東京で家に泊める約束をしたりもしたよ。 >めちゃくちゃ良い出会いですね。僕は全然バイクの世界を知らなかったですが、面白いですね。 (晃さん)うんうん。めちゃくちゃ面白いよ。バイクに乗る人たちの多くは"孤独だけど繋がりたい"という想いを持ってる人が多いんだよね。バイクは1人で乗る(2人で乗る場合もあるが親密な関係である可能性が高い)じゃん、でもみんなインカムでグループ通話しながら話したりするんだよね。 あと、洋服とかと同じで個性が出るからバイクの種類によって性格が違ったりするよね。面白い世界だよ。

モノとカタリ

島根県海士町で始まった「モノとカタリ」プロジェクト。 思い出のモノを通して、島に住んでいる人・訪れた人の「人生の物語」を聞きます。

海士町について

島根県隠岐郡海士町
日本海に浮かぶ、人口紏2,300人の小さな島。島の全体が国立公園に指定されるほど、自然豊かな島。
(詳しくはこちら)

運営者情報

モノとカタリ プロジェクト